過去の取材

2018年7月28日(土)、大阪・中崎町「天劇キネマトロン」で行われた、榛葉健監督とアルフォーズ・タンジュール監督とのスカイプ対談

 

榛葉監督 皆様、天候の悪い中でお集まり頂き、本当に感謝致します。シリアの映画は、私たち日本の人々にとっては少し縁遠く感じられるところがあります。ハリウッドの大作映画のように大ヒットするものとは、全く違います。しかし、このシリアの映画、更にこのドキュメンタリー映画は、「そこでこういう現実が起きているんだ」という意識を、リアリティをもって自分達の体の中に入れていくために、是非出逢って頂きたい、体験して頂きたい表現手段だと思っています。

私が山形国際ドキュメンタリー映画祭で、何も予備知識を持たずに、何本かの映画を観させて頂いた中で、『カーキ色の記憶』という作品に出逢い、本当にびっくりしました。「こういう表現の仕方があるのか」と思いまして、是非監督さんのお話も伺いたいということで、急遽インタビューをさせていただきました。普段は、私は大阪の放送局にいるんですが、テレビの仕事で山形に行っていたわけではなく個人の立場で行って、自分がプロデュースした映画の上映もあったものですから、監督と交流させていただきました。それがきっかけでフェイスブックやこの映画の公式サイトでも記事やコラムを出させて頂きました。この後はタンジュール監督監督との対談が久しぶりに出来るということで、私も楽しみにしています。今日はよろしくお願い致します。

 

岡崎 それでは、さっそく両監督の対談を始めていきたいと思います。

榛葉監督 僕はアラビア語が出来ませんので(笑)、日本語、いやめちゃめちゃ大阪弁で話します(笑)。改めて今日映画を拝見して、凄く深い表現をされていると思いました。4人の登場人物がいてインタビューを積み重ねていくというスタイルは、ドキュメンタリーでは、よくありますよね。それだけに留まらない映像表現にしようとされたのはどうしてですか?

タンジュール監督 はい。2013年にプロデューサーのルアイ・ハッファールと、シリアで起こっている状況を描く映画の制作について話し合いました。ただ当時、シリアの状況について語る映画がたくさんありました。その中で、私はシリアを描く際に、形式にせよ、内容にせよ、別のアプローチを探す必要があったのです。内容については、当時シリアの街区で日々現実に生じていることを扱っていましたが、私は過去に遡ること、シリア人の集団的記憶、シリア人が共有した生活のディテールを辿ることに、いっそう意義があると感じていました。人々の物語を集めることで、なぜ2011年以降のシリア社会でこのような状況が生じたのかについて、その原因を探るような映画を創りたいと思ったのです。これは映画の内容について、私が考えたことです。

一方、映画の形式についても考えました。当然ながら、形式と内容は映画として完全に調和しなければなりません。ただ、私にとってある意味、形式は内容よりも重要です。形式は内容をきちんと伝える手段でもあるからです。適切なシーンやシーンの長さを定め、詩的な言葉を選び、場所に意味付けをし、その場所と登場人物との関係を示さなければなりません。このように表現形式の幅を広げることで、登場人物の内面に入り込もうとしました。痛みや恐怖、戦慄、夢を、自らの表現形式で伝えようとしました。

榛葉監督 ここでおっしゃる「形式」というのは、言い換えるとどういうことでしょうか?

タンジュール監督 「形式」、英語で言うところの「フォーム」ですが、私にとって大部分は「演出」を意味します。カメラの動きやシーン、映像の中の登場人物の動き、映画全体のリズム、カットの仕方、モンタージュの仕方に関わってきます。シーン長さの設定も同様です。「シーンの長さを定めて形式を仕上げることは、彫刻のような作業だ」と、タルコフスキーも言っています。いかにして背後の現実を映像として表象させるのかという作業にも関わります。撮影から編集に関わる作業の中で形作られるものを、「形式」と理解しています。

榛葉監督 たとえば、冒頭、アーケードのシーンで大きな赤い風船が上がったり、下がったりする部分がありました。このシーンはどういう意図を込めているのでしょうか。

タンジュール監督 赤い風船ですね。2つの意味があります。ひとつには、赤色は、革命であり、同時にシリア人が流した血、あるいは暴力を暗示しています。ただ風船が革命を意味するといっても、その「革命」は実際には「軽い」もの、「青臭い」ものでした。思想も熟したものではなく、空に飛んでいったのです。革命が実際の成果、何か大きな創造的な取り組みに結びつくことはなかったのです。ですから、風船はある種の夢、あるいは幻想を示しています。つまり手から離れて飛んでいったのです。実際に私たちの「革命」は、最初の1か月を経ないうちに武力対決に変わっていきました。大きな夢を抱きましたが、露と消えていったのです。

もうひとつですが、実は私の作品ではしばしば赤い風船を使ってきました。『小さな太陽』という短編劇映画でも使いました。それぞれの作品で、風船に違う意味を持たせてきたのです。

榛葉監督 他にも子供が木製の銃を造っていたり、それと対称させるように大人が鉄の銃を地下みたいな所から、長々と構えて最後バンッと撃つシーンがあります。これらの部分も、映画のラストに向かって韻を踏んでいるようにみえます。そういう表現になっていますよね。

タンジュール監督 まったくその通りです。赤い風船であれ、木製の銃であれ、映画の中でそれに類するものは多々使われています。これがまさに私が言っている「形式」であり、「視覚的な言語」でもあります。それらを用いることで、他とは異なる、詩的な映画を創ろうとしました。ここでいう「詩」とは、ロマンスを語るものではなく、むしろ意味や映像、音楽をぶつけ合うことで、統一的な形に仕立て上げられた言語ということです。木製の銃には、「不可能」という意味もあります。木製の銃(=おもちゃ)で人々が実際に体制と戦うことは不可能ですから、ある種の幻想にしか過ぎないのです。また子どもが木製の銃を造って、結局子どもたち(つまり、市民)同士で戦っているのです。ですから、このような象徴的な挿入物で、さまざまな意味を示すことが出来るのです。

榛葉監督 同じ2011年に、東日本大震災が起こりました。およそ2万人の方が亡くなったり、行方不明のままです。私はその時ずっと現場に入っておりまして、例えば、東京から来たメディアが「この人たちは可哀そうだ」といった距離感から取材をして、“同情”を誘発するようなリポートがかなり多くありました。そういった報道に対しては、地元の方々は相当ナーバスに反応されていて、「自分達は見世物じゃない」という気持ちを強く持たれていたんですね。

私は自分のドキュメンタリーの映画を創るときに、その人達の内なる声を何も演出せずに、できるだけこちら側の意図を加えずにありのまま表現していくことでしか、この人達のうめきのようなものが表に出せないと思ったんです。

今回ぜひタンジュール監督さんにお聞きしたいのですが、シリアを舞台にした幾つかのドキュメンタリー映画がある中で、この映画は撮影対象とどのような距離感を保っているのでしょうか。そこの思い、シリア人だからこそ表現できることなのか、という思いを聞かせて下さい。

東京から来たメディアが「この人たちは可哀そうだ」といった距離感から取材をして、“同情”を誘発するようなリポートがかなり多くありました” (榛葉)

「憐れみ」という感情を非常に嫌っております・・・・・・私たちは常に頭を上げて、上を向いています。痛みを語っている人々であれ、息をして、食べたり、飲んだり、思い出したりする普通の人間です。自尊心や誇りを決して失っていないのです” (タンジュール)

 

タンジュール監督 ご質問いただき、ありがとうございます。まず芸術家というよりは個人としてですが、「憐れみ」という感情を非常に嫌っております。最も嫌っている感情です。誰かに対して憐憫の情を感じることはありません。他人に助けを求めるメロドラマも好きではありません。また映画制作に関してですが、当作品だけでなくすべてのドキュメンタリーにおいて、同情を買うための可哀想な人々といった描き方をしたことはありません。

自分が表現したいのはこういうことです。確かにシリアは問題を抱えています。恐怖の世界に生きています。市民は抑圧され、分断され、バラバラになっています。自由を求めれば収監され、拷問され、殺され、犠牲となり、包囲されています。しかし、私たちは常に頭を上げて、上を向いています。痛みを語っている人々であれ、息をして、食べたり、飲んだり、思い出したりする普通の人間です。自尊心や誇りを決して失っていないのです。

また映画学校のシナリオの先生に教わったのは、「映画の中で共感を強く呼びたければ、それに抵抗するように描け」ということです。私はもともと記録映画ではなく、劇映画の監督でした。ですので、役者が悲しむシーンを描きたければ、涙をみせないように演出しました。役者が泣かないからこそ、観客が泣くのです。役者が涙を流すようなシーンは、私の好みではないのです。

榛葉監督 今回4人のインタビューは、シリアではなくて、ヨルダンだったり、フィンランドだったり、パリだったりと国外で撮られています。国外で撮られた過去のシーンも含めたシリアに関する証言だと思いますが、リアリティをもたせるために撮影上の苦労、難しい面があったのではないかと思われます。シリアの内部で起こったことを、シリアの外から語る上で連続性を持たせ、シーンが国内と国外を行ったり来たりしています。そこには編集上の苦心があったように見受けられますが、いかがでしょうか。

タンジュール監督 まったくその通りです。もともと撮影の前の構想で、まずシナリオ作りにかなりの時間を要しました。登場人物や場所についても大まかな計画を立てました。とはいえ、記録映画の制作プロセスにおいて、構想と実際に撮れ、編集されるものの間には開きがあります。モンタージュ(編集)によって撮影したシーンの意味が全く変わってしまいます。編集にも多くの時間を要しました。だいたい8ヶ月間くらいです。30くらいの草案(バージョン)を作りました。こうした長いプロセスの中で、映画の形が全体的に変わっていくのです。毎回のように新しい形になります。その作業は長く、複雑で、シーンを選定するまで続きます。私は、登場人物の内面に入ろうとしながらも、シリアで起こっていることを描こうとしました。時代を遡って「カーキ色の記憶」について語ろうとしました。最も難しかったのは、映画の中で時間を特定することです。(1)登場人物が生きている時代(時間)や(2)彼らが語る過去の時代(時間)、(3)映画としての時間、という3つの時間をひとつに調和させた上で、テーマを伝えなければならなかったのです。

榛葉監督 その苦労の跡はうかがえます。映画表現としてきちんと伝わる次元に達しているのがよく分かりました。ところで、この4人を登場人物として選んだ理由は何でしょうか。

タンジュール監督 4人を選んだ主な理由は、まず私自身の物語をこの4人の物語を通して語ろうとしたところにあります。まず叔母のアマーセルですが、何よりも私の物語に関係しています。長きにわたって潜伏生活を余儀なくされ、家から家へと秘密裡に転々としていた伝説を聞かされていたのです。私が10歳の頃ですが、叔母に会った時に、まるで映画の主人公にあったように感じていたのです。

第2に作家のイブラヒーム・サミュエルですが、もともとのつきあいはありませんでした。映画の中で語った通り、彼の短編小説を映画学校で映画化するにあたって初めて会いに行き、共に語り合う中で“ダマスカス”というものを改めて発見したのです。それは結局、必然的な関係でした。

第3のシャーディーは、2011年に平和的なデモに参加した青年です。若者世代であり、平和的な形での民主化を望み、革命調整委員会の結成にも関わりました。彼は急に活動を始めたわけではなく、前々から市民活動家として活動していましたから、革命に参加する用意があったのです。

第4のハーリドは、ハマ出身です。私はこの映画を作るに当たって、ハマについて語らなくてはならないと思っていました。1982年のハマの虐殺事件と2011年以降の出来事をつなげる必要があったのです。ふたつの象徴的事件を結ばなければならなかったのです。というのも1982年の事件は、世界で広く知られていません。またハマ事件ついて語られる時は、必ず「イスラーム主義者」、つまりムスリム同胞団の問題として語られます。しかし、私は違う形でこの事件を語りたかったのです。ハーリドは世俗的な人物であり、父親は眼科医です。こうした人物によってハマの市民が皆経験した出来事を伝えたかったのです。これら4人を一つの糸で結び合わせることで映画にしようと思ったのです。

榛葉監督 特に血のつながった叔母様が登場するということで、この4人の登場人物の向こう側に監督自身の存在がリアリティをもって見えてくるような受け止め方ができますね。

タンジュール監督 その通りですね。叔母を登場させるのには決心が必要でした。もともとシリアについて語るのであれば、こうした形以外で作ることは考えられませんでしたけれども。シリアについて語るのであれば、自分の傷口を広げることは分かっていました。自分はジャーナリストでなく、映画人であり、芸術家ですから、傷の痛みを感じながら表現するのです。でも、シリアについて語ろうと決心した時、自分の経験を語るのが最も良いことだと思ったのです。その方が、いっそう真実を伝えることが出来ると思ったのです。真実味や信頼を勝ち取ることが、記録映画にとって最も重要なことです。その意味で、自分の経験や物の見方を語るべきだと思ったのです。その上で、他の人々の経験とつなげることで、集団としての物語を紡ぎ出したかったのです。こうした方法によって、シリアで実際に何が起こったか、なぜ国がひっくり返り、バラバラになったのかについて伝えることが可能になると考えたのです。

 

“自分の経験を語るのが最も良いことだと思ったのです。その方が、いっそう真実を伝えることが出来ると思ったのです”

 

榛葉監督 そろそろ締めに向かいたいと思いますが、監督が思う《人間の自由》とは何だと思いますか。

タンジュール監督 《人間の自由》ですか?私は現実的な人間でして、あまりロマン主義的な考え方を持っていません。自由は社会の中での所与の条件の中でしか実現しません。社会や制度、法律、市民の平等意識の中でしか実現しないのです。自分の好きなようにするのが自由ではないと思います。自由はあくまで義務と権利の関係の中で、平等や公正、民主主義といった理念と結びついて享受されるものだと思います。自由は、自分が生きている社会の文脈に規定されています。相対的な概念であり、環境によって変わってくるものだと思います。

榛葉監督 どうしても社会の中で苦しい出来事が起きたときに、我々はそれを描こうとしますが、どうしても「対岸の火事」、「向こう側の出来事」として世間に見られてしまいます。インターネットでどれほど情報を手に入れやすくなったとしても、現実はメディアを通すと「情報」に変わってしまいます。そうすると、血を流すほどの痛みについては実感が伴ってこないという課題があるように思います。こうした中で、我々ドキュメンタリーに関わる者の役割については色々あると思いますが、監督自身のお考えを聞かせてください。

タンジュール監督 ドキュメンタリー監督には任務があると思います。日々のニュースでは、普通のことのように死者数が発表されますが、聞く方は感情を失って涙を流すことはなく、ロボットになるのです。こうした中で、映画の役割は、真実を探すことだと思います。それは単純な形で行われるものです。イデオロギー的であったり、複雑であったりということはありません。単純な物語でいいのです。映画は、世界に伝わる唯一の言語だとも思います。世界のいかなる場所であっても、映像表現は理解されます。時には言葉がなくても、映像から理解されるのです。映像は複雑な現実を伝え、多数の意味や象徴を含めることが出来る貴重な手段です。とはいえ、日々伝えられるニュースを意味のある物語にし、さまざまな意味や人間性、痛みを含ませる上で、ドキュメンタリー映画監督の任務は厄介だとも思います。

榛葉監督 まさに言葉を越えて「映像で伝える」という意味では、この作品はピカソの『ゲルニカ』が映画になったようなものだという感想を、山形の国際ドキュメンタリー映画祭でタンジュール監督さんにお伝えしたことを思い出しました。

岡崎 ちょっと、照れていますね。さすがに褒め過ぎ、ということでしょう。

榛葉監督 皆さん、どうでしょうか。監督にお伝えしたいメッセージがあれば、お願いします。

 

お客さんA 風船の赤と少年のシャツの赤は、同じ色調や意味を狙ったものでしょうか。

タンジュール監督 赤色にはさまざまな意味を込めています。ただし、少年が来ていた赤いシャツは常にカーキ色の軍服の下に隠されていたものです。映画の中で少年は軍服を脱ぎ捨て赤いシャツのままで緑の草原を走り抜けます。それは、またわずかな希望を示したいという意図でした。赤色は若者の革命を象徴していましたが、常に狙撃手に狙われ頭を撃ち抜かれる危険はあるにせよ、夢は常に生き続けるのです。実際に、映画の最後で狙撃手は銃弾を放ちますが、この子どもが撃たれたのかどうかは分かりません。つまり赤色は、革命は小さなものであったにせよ、その精神が続いていくことを示したかったのです。

 

お客さんB シリアで今流行っていることってあるのでしょうか?ここは大阪ですから「笑いの文化」がありますが、街としての文化や流行についてお聞きしたいです。みんなが癒やされる何かがあるのでしょうか?

タンジュール監督 今現在ですか?私自身は、2012年にシリアを出て6年間国外に暮らしています。答になっているかどうか分かりませんが、答えてみます。シリアを出る前の話ですが、例えば映画に関しては、“映画のない映画館”はありました。すべて放置され、ボロボロに廃れたのです。この映画の中で示した通りの光景です。これはシリアの全ての映画館でみられた光景で、何もない劇場と化していました。演劇の場も、音楽コンサートの場も廃れたのです。エンターテイメントの手段は限られていました。文化人と呼ばれる層も同じでした。楽しみと言えば、仲間と出かけてカフェでコーヒーを飲み、政府の悪口をひそひそ言うことでした。

私がシリアを脱出した後も、何か楽しみといったものはなかったでしょう。シリアに残っている友人らによれば、全体として絶望感に支配され、麻薬とアルコールがかつてないほどに蔓延っているとのことです。タトゥーも流行っていると聞きます。こうしたものが戦争の影響かどうかは分かりませんが、そうなのでしょう。秘密のバーなども増えていると聞きます。戦争が始まって以来、こういうものが流行っていることは確かです。

ちょうど昨日の出来事にも言及したいと思います。昨日からシリアのSNSは皆、この話題で持ちきりです。政権は「国内で何も問題は生じていない、収監も拷問もない」と言い張っています。しかし、ダマスカス郊外のダーレイヤという小さい街だけで、民間人の活動家千人が2015年から2017年の間に拘束され、拷問されて亡くなったことが昨日、明るみになったのです。いったい体制が何をしてきたのかということは、このことからも明らかです。

 

榛葉監督 ひとつお聞きし忘れたのですが、そういう危険で抑圧されているシリアで、ドローンを使って廃墟を撮影したシーンがありました。こういう撮影は監督自身やスタッフの皆さんに危険はなかったのでしょうか。

タンジュール監督 もちろん危険です。ドローンを使った撮影をするとなれば、現地で戦っている勢力の同意を得ることが必要です。小鳥が飛んでいても撃ち落とすような状態ですから。ですから複数の勢力の同意を得た上で、撮影したのです。ドローンを飛ばせば、諸勢力の軍事部門が撃墜します。それはとても難しい撮影でした。

榛葉監督 それだからこそ、この映画がすごく貴重な映像表現になっていたというのが、今の言葉からもお分かり頂けたかと思います。では、最後の質問ですが、いつか監督はふるさとに帰りたいと思われていますか?

タンジュール監督 母は依然として私の故郷のサラミーヤに住んでいます。シリア中部の小さな街です。姉もそこに同居しています。毎日のように連絡し、安否を確認しています。当然、母は国を出るつもりはありません。父と母が建てた家を出るつもりはないのです。中庭があって、蜜柑やレモンの木、ジャスミンを植えています。母は毎朝起きて木が大きくなるように水をあげています。

以前は私は、母が国を出る気がないことに苛立っていました。出国を勧めても、いつも拒否するのです。しかし、今、自分は母が頑固にふるさとに残っていることに満足しています。母が祖国に残っていることが嬉しいのです。

また、自分はダマスカスに家を持っています。売るつもりもないです。苦労に苦労を重ねて2010年にその家を購入したのですが、結局、妻子とともに1年しか住むことなく、国を去らざるを得なくなりました。もちろん、その家に戻ることを夢見ています。母に会い、友人に会うことを夢見ています。そう願っていますが、政治的には私は政府に追われる身です。とはいえ、いつか将来に帰国できる機会があれば、絶対帰ります。物語を作る者として、ふるさとには無限の物語があることを知っているからです。誰かがその物語を世界に伝えることを必要としているのです。私の役割がシリア国内にあるはずです。

 

“シリアに残っている友人らによれば、全体として絶望感に支配され、麻薬とアルコールがかつてないほどに蔓延っているとのことです”

 

榛葉監督 監督、貴重なお時間、本当にありがとうございました。またお会いしましょう。

タンジュール監督 今回、こういう形でお話しできたことに感謝いたします。この映画に関心を持って頂き、気に入って頂いたことにも感謝しております。実は、来年家族と日本に休暇で行こうかとも考えており、その話題で一家盛り上がっております。

榛葉監督 それは是非、お待ちしています! (客席拍手)